…………
……学園に、いつもと変わらぬ朝が来る。
私の部屋も、朝陽の光で照らし出される。
私はその色を、無感情なままの瞳で受け止めていた。
洗面所のドアを閉め、部屋の中を軽く見回す。
ここに初めて入った時と同じく、部屋の広さがほとんどそのままの空間。
つまりは、極端に物が少ない室内。空虚に感じるとでも評すればいいか。
同年代の女子の部屋と比べても、この空間には華がないのだろう。
他の誰かが見れば、生活感の欠片もないと言われそうだ。
だが今の私にとって、そんな評価は無意味。
無為に時間を過ごすことで平穏を実感するような情緒は、今の私にはいらない。
限られた時間を惜しみ、できる限りの喜びを詰め込もうとするのが、普通の生き方であるならば。
私はただ、必要な部品だけを今という時間に組み込み、望む未来へ続く足場にするだけなのだから。
自分で定めた道をなぞるように、ただ日々を繰り返すだけ。
これから始まる一日も、その中の一歩に過ぎない。
クローゼットから制服を取り出し、手早く着替えを済ませる。
他の同級生とは違う、黒を基調とした制服。
そして、私の体には全く合っていない。肩幅も袖丈も、私の小柄な体を包むには大きすぎる。
にもかかわらず、機能性とは完全に矛盾したこの服装を、私は毎日身につけている。
安らぎを、感じている。
そう……安らぎ。
何かの結果に繋がるわけでもない、無意味な心の惑い。
それを噛み締めるように、私は少しだけ着替えの手を止め、眠るように目を閉じた。
何も見えず、何も聞こえず、感じるのは肌に触れる温かな感触だけ。
もしかしたらこれだけが、今の私にとって唯一の、『必要ないもの』なのかもしれない……
着替えを終えれば、あとはいつもの私に戻るだけだ。
髪を束ね、リボンの位置を直し、そして私は姿見の前に真っ直ぐ立つ。
そこに映る、『少女』の姿。
身の丈に不釣り合いな服を着た、私の姿。
「……変わらないな、本当に」
その呟きは、誰に届くともなく消える。
…………
関東の丘陵地帯にその広大な敷地を構える、神撫学園。
そこでの生活は、平穏を形にしたようなものだった。
学園と楽園はたった一文字の違い、そんなふざけた物言いが、この神撫学園では確かだと思える。
あと数年で社会に出るような若者達が、それまでに許された自由を、さほど自覚もせずに享受している場所。
学園の名にふさわしい空気が、この場所には満ちていた。
私が望もうと望むまいと、この場に在る。
私が拒もうと拒むないと、私を取り巻いている。
例えば、この教室で絶えることなく響く、クラスメート達の談笑の声とか……
「黒河さん、おはよう」
「……おはよう」
そんな思考を体現するように、1人の同級生が私に挨拶してきた。
私は調子を変えることもなく、いつも通りに平坦な声を返す。
「今日の1限って、現国だよね。確か宿題あったけど、あれちゃんとできた?」
「一通りは問題なく」
「そっか。結構難しかったけど、さすが黒河さんだね」
自然に話しつつ、相手を観察する。
何かに際立っているわけでもない、ごく普通のクラスメートの一人だ。
学業の成績も、交友関係も、取り立てて目立つものはない。
特別なことがあるとすれば、私にわざわざ話しかけてくることくらいだろうか。
積極的に同級生とかかわりを持つでもない、この私に。
「昨日のテレビにモジャコンが出てて、すっごいおもしろかったんだよー」
「……前も言ってた、芸人か」
「でもってね、来週は小麦大麦が出るんだってー」
「小麦大麦?」
「わたしイチオシの新鋭だよっ。よかったら黒河さんも、見てみてね」
「まぁ……覚えておこう」
会話を楽しむ必要もない。学園生活を滞りなく進められれば十分だ。
彼女の方も、熱に差のある私の態度に腹を立てる様子はない。
どうせ隔たりがあると、互いに理解しているのだ。
「じゃあ、あやちゃんが呼んでるから私はこれで。またあとでねー」
そう言って彼女は、私の前から去っていく。
彼女が向かった先には、もう1人の同級生がいた。
私と話していた少女と一言二言交わし、そしてこちらをちらりと見やる。
その視線に含まれていたのは、はっきりとした蔑みの感情だった。
……当然、私にとっては慣れたこと。
クラスの面々が毎年変わるとはいえ、3年次ともなれば同級生同士の交流も固まってくる。
そんな中で私は、特に親しい友人を作ろうとはしなかった。
何故なら、必要のないものだから。今の状況も、私にとっては好都合なくらいだ。
友人の輪に加えられるわけでも、害意をぶつけられるわけでもない。
私が自分の『目的』を果たすまでの間、この学園にいられれば、それで十分。
それ以外の感情など、今では思い起こすこともほとんどない。
…………
授業が終われば、もう教室に留まる必要もない。
クラスメート達が再び談笑の花を咲かせ始める中、私は荷物をまとめて足早に教室を去る。
寮に帰るわけではない。あそこは、時間を過ごすだけの場所でしかない。
向かうのは、私が生きる場所。
今の私を動かす、ただ一つの理由が残された場所。
…………
神撫学園の、旧校舎。
学園が改築され、新校舎が建てられた際に、一部だけが残された昔の校舎。
教室から学園中に人が散っていく放課後の時間でも、訪れる人間は少ない。
静まり返った廊下に、私の足音がよく響く。
他に聞こえるのは、遠く新校舎から微かに届く、賑やかな喧噪くらいのもの。
教室のように、周囲に活気が満ちているわけでもない。
断絶ではなく、隔絶。それ故に、より強く孤独を感じる。
でも、そんなことは関係ない。距離を置くことを選んだのは、誰でもない私自身だ。
この安息に満ちた学園の中で、私はこの場所に立つことを選んだのだ。
鍵を開いて部屋に入り、荷物を無造作に机に置く。
部室等として使われている旧校舎の一角。プレートに書かれた名は、『論説部部室』。
神撫学園論説部。それが、私の領域だ。
部活の名はあっても、部屋に出入りする人間は私以外に誰もいない。
要するに、部員数は1名。もちろん、そんな団体が部活として認められる道理はない。
だがこの論説部は、部活としての活動を、学園長から認められている。
何故なら私は、特別だから。
コンピュータを起動し、1人で作業を始める。
やるべきことは過去の資料の整理と、現在この学園で進んでいる状況の把握。
他の在学生達が到底興味を持たないだろう情報、文章の羅列に、私は意識を集中させる。
そもそも論説部の存在自体、私の他に知っている学生がこの学園にいるのかどうか。
ここにいる私ことを、他の誰かが見ているのかどうか。
……おそらくは、誰もいないだろう。
この部屋が何の目的で用意され、ここで私が何をしているのかなど、他の皆にとっては意識の範囲外でしかない。
彼らが身を置く穏やかな日常に、私が戻る意味などないのだから。
教室での会話も、同じこと。日常と非日常の境界を挟み、互いの幻を瞳に映しながら、仮初の触れ合いを続けているだけ。
そう、私は彼らとは違うから。
私はもう、この学園でたった独りだから。
孤独を恐れることはない。賑やかな教室で心を揺らすこともない。
私は私の意志でこの場所に来て、静かに闇に潜むことを選んだのだから。
だから今は、全てが思い通り。
物事は、私自身が望むように動けばそれでいい。
この部屋に他の誰かを招く、その時が今はまだ来ていないというだけ。
目指す場所に進む一筋の光となり、不要な全てを切り捨てながら、私はここまで来た。
これから神撫学園は、少しずつ動き出すだろう。私が予測する通りに、大きな戦いがここで始まるのだ。
そのうねりの前に、完璧とも言える地盤を築き上げた。
全て、上手くいっている。不満を抱く余地もない……
「…………」
なら、どうして……
ここにいる私は、全てを捨てきれていないのだろう?
何の感情もなく、風景の中に埋没するような存在になれればいいと思う。
だが、最も理想的なその状況に、私はまだ辿り着けていない。
理由は分かっている。私はこの学園の中で、ごく普通に日々を過ごす皆の中で、異質に映ってしまうからだ。
黒い衣装。白をベースにした今の制服とは対照的な、過去の神撫学園の制服。
別に、規則に違反しているわけではない。
いわゆる制服は、神撫学園においては標準服として定められているに過ぎず、基本的に学園内での服装は自由。
常識を逸脱しない範囲であれば、自身で用意した私服の着用も認められている。
だから私は、これを選んだ。
ただ『無意味』に、この服を着続けている。
目的を遂げる為だけに生きる私が、たった一つだけ引きずっている、論理では動かせない感情の欠片。
疑問の答えを探すように、制服の胸元をぎゅっと握りしめる。
指先に返るのは、確かな感触。
今の制服と比べれば快適さに欠ける、厚手の生地。戻れない過去を想起させるもの。
そして……かつて私が、心の拠り所としていたもの、ほのかな温もり……
『それじゃ、これから雲母と私は親友ね。よろしくっ!』
心の底から、遠い昔に聞いた声が蘇ってきた
それは、私が『向こう側』で手にしたささやかな幸せ。
でも、もうあの場所は、境界の向こう側。私が失い、そして私が捨てたもの
同級生の視線よりも強く、日常を形作る喧噪よりも激しく、私の心を揺さぶる毒。
……本当に、必要ないのに。
どうして私は、未だにこんなもので自分を包み込んでいるのか。
「っ……」
ふと意識を、現実に戻す。
思った以上に長い時間、思索に耽っていたのか。目の前の画面はいつの間にか、外国の風景画像に切り替わっていた。
そして不意に頬に当たる、冷たい感触。拭った指先が、さらりと濡れた。
「まったく……何をしているんだ、私は……」
時計を確かめ、作業を再開する。
一瞬陥った迷いを振り切り、その欠片すら残さず一心に……
「……振り返らない。今はただ、前に進むだけだ……」
…………
続く
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