「黒河さん、何読んでるの?」
ホームルーム前の時間、いつものように1人で机に向かっていると、先日と同じくクラスメートの女子が話しかけてきた。
彼女は私と、特別な繋がりを持つわけでもない。委員や部活の関わりも、実質所属のない私には関係ないこと。
こうして彼女の方から話しかけてくるのが、毎日の恒例となっているだけ。物好きなのだろう。
そんな彼女が話題に選んだのは、私が今読んでいる資料の束のようだ。
「追試の資料だ。少し必要があって、調べていた」
「え……追試?」
はぐらかそうとも考えたが、彼女が深く追求してくることもないだろう。正直に答えることとする。
私が読んでいたのは、必要があって学園長の古戸無から受け取っていた、追試験に関する資料。
これから私が『論説部の活動』を開始するに当たって、重要となるものだった。
しかし彼女は、それを聞いて目を丸くしていた。
「黒河さんって、追試受けるの? もしかして、テスト落としちゃってた?」
「そんなことはない。私はちゃんと通っている」
「じゃあ、どうしてそんなの持ってるの?」
「……後輩に、厄介なことになっているのがいてな」
一応、嘘は言っていない……未来の予定が含まれてはいるが。
彼女は心底意外そうな表情を浮かべていたが、やはりそれ以上深入りする気もないようだった。
「そっか、気をつけてね。って、黒河さんに言っても仕方ないか」
「いや……伝えておこう。ありがとう」
いつものように、会話は大した成果もなく終わった。元々成果を期待するものではないから、当然だが。
彼女は曖昧な笑みを私に向けた後、他の友人に呼ばれて戻っていく。
きっとこれから、私の居場所は今以上に、周囲のクラスメートから離れていくだろう。
それは、覚悟。目的を定め、戦いへと身を投じるならば、必要となるもの。
だけどこの場に、未練はもうない。
たとえいつか戻れなくなる場所だとしても、それを惜しむ感情はない。
そもそもここにいること自体が、私にとっては違和の証なのだ。
私は、前に進む。皆が何も知らずに日々を過ごしているこの時でも、その戦いに向けて動き出しているのだから。
友人の輪へ加わるクラスメートの背を見つつ、私は深い溜息を吐いた。
…………
神撫学園で行なわれる、会長選。
学生によって運営される執行組織の頂点を決めるそれは、他の学園の常識とはかけ離れた規模で開催される。
時期は、不定期。何事もなければ、数年の間開催されずに過ぎていくこともある。
現に今の在学生も、3年生以外は前回の選挙を知らない。現会長である神楽那由他の就任が、2年前のことだからだ。
今年も何事もなく終われば、神楽那由他は無事卒業し、彼女が指名する役員が後継として会長に就任する。
だがつい最近に、その状況に変化が訪れた。それは、在学生有志による、会長への不信任案の提出。
中心となったのは、男子硬式テニス部の部長である緋ノ宮黎。
彼は神楽那由他の施政に異議を唱え、会長として相応しくないと訴えたのである。
これが学園長に受理されれば、後期に就任する次期会長の指名権は、現会長から剥奪される。それが、神撫学園のルール。
特別に選挙管理委員会が組織され、次期会長への立候補者を募る期間が設けられ……
そして候補者が出揃った後に、学園の全てを巻き込み大規模な会長選が行なわれるのだ。
このことを知っている者は、まだほとんどいない。
緋ノ宮黎の周囲の人物と、彼から書類を受け取り審議中の教師達。
そして……この私。
学園長と情報を常に共有している、おそらくは在学生の中で唯一の存在。
或いは、教師達以上に情報を保有しているとも言えるだろう。
緋ノ宮黎から提出された不信任案が受理されることは、既に分かりきっている。
なぜなら私にとって、今年解散選挙が行なわれることは、必定の事実なのだから。
…………
放課後、人気のない旧校舎の一室。
論説部の机に向かい、私は日課となっている資料の確認を始めた。
一見すれば平和な日常でも、少しずつ状況は移り変わっている。
今月上旬の定期テスト。そこで不名誉な赤点を頂いてしまった者は、追試験を受けることとなる。
教室でクラスメイトが話していたのは、これのことだ。
追試験でも合格点に至らなかったり、事情があって欠席せざるを得なかったなら、追々試。これが最後のチャンス。
もちろん、そこまで追い詰められる学生は極僅かだ。大半は追試までに合格点を取って安堵することだろう。
当然、最終的な単位習得判定が絶望的になるほどの点数を取る者など、いない。
……正確には、普通はいない。
カップのミルクに口をつけつつ、最新の資料に目を通す。
今朝方教室で見ていたのは、追試験の日程などが書かれたごく普通のプリントだ。
だが今目の前にあるのは、それとは別のもの。
実際に行なわれた定期考査の成績や、追試験を課せられた学生の名前などが、詳細に書かれている。
流出したら一騒動になりそうな危ういものだが、私にとっては問題ない。
決して一般学生の目には触れないものだが、私にとっては特別でもない。
感情もこめずただ無機質な視線で、資料を流し見ていく。
時折知った名前が目に入るが、そこで手が止まることもない。
確認すべきことは、ただひとつ。
私が動き出すに当たって、有利に働きそうな情報があるかどうか。
そして資料が示す現況は、ひとつの事実を示していた。
「……要するに、全てが順調か」
目的の為なら、多少の無理を通す必要もあると思っていた。
しかし状況は、自然と私が望む方向へ動いていたようだ。
これは私を導く天恵なのか、それとも私を誘い込む凶夢なのか。
……どちらであろうと、道を進む以外の選択肢などないわけだが。
見つけた単語をしばらく見つめ、私は残りのミルクを飲み干す。
『追試験対象者 翠下弓那』
その名前と、続く文章を確認し、私は資料をファイルに仕舞いこんだ。
『二次追試験の欠席により、1学期中間考査の成績は確定』
…………
「昨日、緋ノ宮黎の出した不信任案が受理された」
翌日の放課後、神撫学園の学園長室。
私は神撫学園の学園長、古戸無進の前に立っていた。
「お前さんに取っちゃ、分かりきったことだろうがな。一応細かい書類も渡しておくぞ」
「別に構わないさ。情報の把握すら面倒に感じるほど、私は愚かじゃない」
「だろうな……将来は頼れる上司になるだろうよ、お前さんは」
「……皮肉か?」
「純粋に感心しただけさ。俺より学園長に向いていそうだ」
古戸無から書類を受け取り、目を通す。
会長選の開催決定、それに至る今月の日程。必要な情報を、頭に叩き込んでいく。
それに今まで集めた情報を組み合わせれば、先を予測するのも難しくはない。
確実に会長選に立候補するのは、現会長の神楽那由他と、不信任案提出者の緋ノ宮黎。
さらに最近水面下で勢力を広げているらしい連中が、我先にと集まることだろう。
その中で私は勝ち抜いていかねばならない。
……『彼女』を、先頭に据えて。
「公示は明日だ。来月の頭には初戦が始まるから、それまで選管がらみで忙しくなるよ」
「仕方ないだろう、それがここのルールなのだからな」
「久しぶりだからなぁ……頭がなまってなければいいが」
頭をかきつつ、古戸無は懐から煙草を取り出す。
学園内は全面禁煙だが、彼はこの点だけは譲ろうとしない。
仕事の合間に度々ふかしているらしく、定期的に誰かが問題にしては、よく分からないうちにうやむやになっている。
「さて、出遅れるのも避けたいな。私も本格的に動くとするか」
受け取った資料を一通り確認し、鞄に仕舞って席を立つ。
古戸無は煙を吐き出しつつ、目を細めてこちらを見やる。
「……そうだな。以前から決まっていたこと、か」
「何か、言いたいことでもあるのか?」
「別にありゃせんよ。皆の自主性に任せるのが、俺の教育方針だぞ」
「お前の場合、放任しているようにしか見えないこともあるがな」
「そう言うな。昔も今も、学園は一応上手く回ってるだろ?」
「……あぁ、そうだ。優秀な学園長のおかげだ」
先ほどの言葉に返す皮肉と受け取ったか、古戸無は苦笑を浮かべる。
だが私にとって、彼に抱く敬意は、まるっきりの世辞と言うわけでもない。
何せ私がここにいられるのも、自由な行動を許されているのも、彼のおかげなのだから。
脇目も振らず、目標に向けて歩けること。古戸無の計らいと学園長の権限がなければ、成り立たない。
「手続きはこちらでしておくか? お前さんなら問題ないだろうが」
「いや、頼む。私も忙しいからな」
「……そうだな。そっちには、彼女を引っ張る役目があるんだろ?」
諦めたような笑みを浮かべつつ、古戸無は意味深な視線を私に向ける。
少しばかりの情動を抑えつつ、私はその視線を受け止める。。
「で、肝心の彼女は今どこに?」
「今頃学園中を走り回ってるだろうよ。さっきここにも来た」
「わざわざ学園長室に?」
「あぁ、友人を引き連れてな。起死回生の策を求めて、って所だ」
「お前からは何か言ったのか?」
「いや、何も。言っただろう、お前さんに任せる、と」
含みを持たせるように、あえてゆっくりと答える古戸無。
私はそれに頷き、学園長室を後にした。
…………
夕暮れの、学園敷地。
まるで備えられた舞台のように、ちょうどよくカラスの声が日没の時を告げる。
私は、旧校舎裏の空き地にやってきていた。
旧校舎に部室を構える部活が時折練習などに使っている他は、訪れる人もほとんどいない。
少し冷たい風が、寂れた空き地を通り抜ける。
しかし今日は、この場所に普段とは違うやかましい声が響いていた。
「あのな……さすがに言わせてもらうぞ」
「…………」
「今回ばかりは、根性ではどうにもならない。このまま歩いてたって無意味だよ」
「っ……! だったら、どうすればいいのよ」
そこにいるのは、2人の学生。
その姿を捉え、一瞬私は目眩のような感覚に襲われる。
1人は、呆れた声を上げる少年。夕焼けの中にあってなお映える、赤い髪が印象的だ。
そしてもう1人は……苛立ちを多分に含んだ声で喚き散らす、ピンク色の髪の少女。
私にとっては、下級生。直接会ったことなど、今までに一度もない。
でも……彼女の姿を目にした私は、声をかける前に思わず息を呑んでいた。
目的の、人物だ。間違いない。
彼女の存在こそが、私がこれから歩みを進めるに当たって、最重要となる。
だから、あとは定めた通りに、盤面の駒を動かすだけ……
にもかかわらず、私は足を動かすことが出来ない。
自分で、笑ってしまう。
私の覚悟は、その程度のものなのか?
予想の内にあるはずの事実に心を動かされるような甘さが、私に残っていたのか?
……答えは、ノーだ。
私が見るべきものは、あの2人の姿の、向こう側にあるものなのだから。
「だって、敵が大きすぎるよ。学園長だって言ってたじゃないか。ここのルールをひっくり返すつもりか?」
「何よ、みんなしてルールルールって……はぐれた子は全部無視するわけ!?」
2人は私の存在に気付く様子もなく、言い争いを続けている。
冷めた態度を取っていた少年の方も、少しずつ声を荒げている様子だ。
会話の内容が、ここまでよく聞こえてくる。聞かずとも分かることだが。
「弓那は留年を深刻に考えすぎなんだよ。今年一年病気で寝込んでたって思えばいいじゃないか」
「歩武は分かってないのよ! あたしがどんなに悔しいか!」
少女の方は、翠下弓那。追試の赤点によって留年が確定してしまった落第生。
少年は、確か朱島歩武。資料によれば、弓那のクラスメイトだったはず。
2人は弓那の留年を取り消す手段を探し、ここ数時間をかけて学園中を走り回っていた。
そして最後に……ここで私が、宣言する。
彼女に残された最後の手段を、起死回生の秘策を、天啓の如く授けるのだ。
「今まで流した血も、汗も、涙も、全部台無しなのよ!」
たったひとつのことを、告げるだけでいい。
それで私は弓那を、後戻りの出来ない未来へ、導く。
弓那と共に、長きに渡るだろう戦いの場へと、赴く。
これが、その一歩。
今の日常が粉々に打ち砕かれようと、構わない。
それは所詮、紛い物。私の居場所は、もうないのだ。
覚悟を自らに問うことなど、今までに数え切れないくらい繰り返してきた。
だから……進む。
「目の前にルールがあったら引きちぎってやりたいくらいだわ!」
私は2人に歩み寄りつつ、彼女の叫びに答えるように……
……澄んだ声で、言い放った。
「だったら、引きちぎればいい」
――そして物語は、動き始める。 |