『3月のある日、論説部の日常』
「何か、忘れてる気がするのよね」
唐突に、弓那が口を開いた。
しばらく各々が自分の作業に没頭していた、そんな微妙な時間に、突然割り込んでくる声。
「……いきなりだな、何を?」
「何だか分からないから、忘れてるって言ってんのよ。ねぇ、知らない?」
「俺に聞かれても困るっての」
「あーもう、気になって集中できないわ! のどに小骨の気分よ!」
携帯ゲーム機を乱暴気味に机に置き、弓那はそのまま天を仰いだ。
かと思えば、今度は頭を抑えつつ、机を指とんとん叩き始める。
どうやら本格的に、頭が泥沼にはまっているようだ。
「忘れるのは、自分にとってどうでもいいことだからだろう。気にするだけ無駄だ」
「あぁ、雲母ってやっぱりそうやって割り切っちゃうタイプ? どうでもいいやー、って」
「私はそもそも、必要なことを忘れたりしない。お前と一緒にするな」
「そ、そうね……確かにあり得ないわ」
藍と机を挟んで向かい合っていた雲母が、視線を向けずにきっぱりとそういう。
いきなり騒ぎ出した弓那に少しいらついているのか、口調がいつもよりちょっとだけ厳しい。
「弓那だからな、すごい大事なこと忘れてるのかもしれないぞ。俺達も気をつけた方がいい」
「何よそれ。あたしが歩武に迷惑かけるって言いたいわけ?」
「うん」
「即答するな! あたしはそんなことしないわよ!」
「実績を考えれば当然だろっ!」
「弓那、あまり騒がないで。部長が集中できなくなる」
雲母達の方は、だいぶ長い間動きが止まっていた。
どうやら雲母が、長考に入っているようだ。
ちょうど区切りのついた読書を切り上げ、彼女の手元を覗き込んで見る。
「……厳しいな。ここで凌げなきゃ負けじゃん」
「いちいち言われなくても分かっている……くそ、黒が足りん」
「部長が事故るのはいつものこと。だから多色は向いてないって言ったのに」
「うるさい! 大体お前が回りすぎなんだ! 積み込みでもしてるんじゃないか!」
「たかがカードゲームに何熱くなっちゃってるの?」
「こいつは、いちいち人の神経を逆なでして……もういい、ここで勝負に出る!!」
「ならそれは山札に戻す。まだ何かできる?」
「っ――!! ええい、もう一戦だ!! 今度こそ勝つ!!」
…………
「で、どう?」
「何がだ。主語をはっきり言え」
今度は明らかに、不快感を表に出した声。
あれだけ理不尽に連敗していれば、当然だろうが。
「あたしの小骨よ! 喉につっかえた小骨! 忘れてること、何か手掛かりはない?」
「まだ思い出してなかったのかよ」
「いや、それがね……」
大仰な仕草で弓那は頭を押さえ、溜息。
そのままうんうんうなりつつ、部屋の中をうろつき始める。
「少しずつ、こう断片的に、思い出してきてるみたいなんだけどね……」
「何を思い出したのさ」
「それがね……これって、あたしだけの問題じゃないような気がするのよ!」
そして両手を机につき、身を乗り出してくる。
何だかうっとうしいが、思い出すまで同じ調子でいられることを考えると、無視するわけにもいかない。
「それはつまり、私にも関係があること?」
「うん、多分……」
「じゃあ、もしかしたら……あれかもしれない」
「え、藍は分かるの!?」
「この間弓那にお金を貸した」
「えぇっ!? うそ、そんなことあったっけ?」
「ということにしておいていただきたい」
「アホ玉葱、話をややこしくするんじゃない。それで、私にも関係あるのか?」
「するよーな、しないよーな……」
「面倒なやつだな……」
部室内の空気が、粘り気を帯びてくるような感覚。
読書を再開しようと思ったが、何か気分が乗らない。
他のみなも、表情を見るに同じ気持ちのようだ。
「じゃあ今日の部内会議の議題は、弓那の小骨の正体について?」
「まぁ、仕事もなく集まっただけだもんなぁ。それでいいんじゃね?」
「みんな、ありがとう! がんばって思い出すから!」
…………
机を整え、きちんと椅子を並べる。
弓那が片方に陣取り、それと向き合うように俺達が並んだ。
今日の活動は、弓那の記憶サルベージ。
……不毛かもしれないが、特に予定がない暇な1日なのだから仕方がない。
「うーん……大事なことなはずなんだけど」
「学業に関係することはどうだ?」
「学業?」
「例えば、課題の提出日が近いのに何もしていないとか」
「うーん……多分、違うわね」
「ふむ。まぁ、弓那に勉強の予定があるとも思えないしな」
「どういうイメージよ! あたしは宿題もちゃんとやってるのよ!」
「提出日だけは守ってるよな。提出日だけは」
「うくぅ……」
会議が始まってから、未だここまで進展はなし。
広げた紙にそれらしき可能性を欠きだしては、弓那がバツ印をつけていく。
「そもそも、学園と関係ないんじゃないか? 他にもあるだろ、色々」
「あるとすれば、誰かとの約束を忘れている、とかか」
「約束ねぇ……やっぱり学園内の人くらいしか考えられないんだけど……」
「施設への手紙は?」
「それは先週送ったから、大丈夫」
「ならやっぱり、私への借金を……」
「却下」
「…………」
予定でもないし、締切でもないし、何かの発売日でもないし、約束でもないし……
思いつくだけ言って、消去法で進めていくしかなさそうだ。
「うーん、もっと単純な問題なんじゃないか?」
「単純って、たとえば?」
「今日出かける時に、部屋の鍵をかけ忘れたとか」
「いや、そういうのじゃないのよ。今日だけの問題じゃなくて、もっと前から気にしなきゃいけないのに見逃してたような……」
「ほんとめんどくさいな……」
「そんなこと言わずに手伝ってよ! きっと思い出したら、知恵の輪が解けるくらいに快感なんだから!」
「帰って休みたい……」
「サボるな! 大事な部活動よ!」
これ以上話しても、埒が明かない。
どうせしばらくしたら完全に忘れるだろうから、もういいと思うのだが。
「そういえばさっき、弓那個人の問題でもない、とか言っていたな。その方向はどうだ?」
「? どういうことだよ部長」
「例えば記念日とか、行事とかだな。他の相手にもかかわることなのだろう?」
「おぉ、なるほど」
「あー……ちょっと待って、それかも……えーっと、えーっと……」
「……もしかしたら、あれ?」
発現数の少なかった藍が、唐突に挙手した。
考え込んでいた弓那も唸るのをやめ、みんなでそちらに注目する。
「そう、あれ。えっと……なんだっけ」
「おい、藍まで小骨か? これ以上重ねないでくれよ」
「大丈夫、覚えているから。確か、白濁記念日?」
「なんだよそれは!!」
「ホワイトデーと言いたいのか、貴様は」
「うげ……」
その言葉を聞いた途端、全身に震えが走った。
過去の想い出が、リアルな感覚を伴い脳裏に蘇ってくる。
「そ、そういえば、そんな季節ね……」
「これはむしろ、歩武の問題だと思う。確かバレンタインに物をもらった人は、1ヶ月後にお礼を返さなければならないはず」
「か、勘弁してくれ! 俺の財布と精神力がもたないよ!!」
「……私は別に要らんぞ。義理にまで几帳面に返す必要もないだろうしな……」
「あ、あたしも……結局迷惑かけちゃったし、気持ちだけでいいかなーって……」
「いや、でも……結構準備とか大変だったっぽいしさ、何もしないってのも悪い気がするんだよ」
「別にいいと言っているだろう! 本気だとか勘繰るんじゃない!」
「ちょ、何で怒るんだよ部長!!」
「大体、あれはお前の自業自得だろう……普段から色目を使いまくっているんじゃないか?」
「そんなことない! 俺は無実だ!」
「自覚がないか、ならなおさら問題だ」
「そうよね……じゃなかったら、あんなに集まらないわよね」
「だから知らないってば!!」
詳しくを語りたくはない。
あの日は、全く心の準備ができていなかったところに、突然の衝撃が訪れたのだ。
あれだけの精神的惨劇は、過去の修行生活でも経験したことがなかった。
自分に非がないのにあれだけ心を擦り減らすというのも、ひどいもので……
「……もう、疲れたから帰っていいかな」
「ちょっと、あたしの議題が終わってないわよ!」
「待って。弓那と部長は辞退したけど、私は諦めていない」
「一番返したくない奴が……」
「確か公定レートが3倍だから、歩武は私に600万円相当の贈り物をしないといけないと定められているはず」
「ほとんど自分で食ってただろ!! 俺に来たのは食べかけのするめいかだけだったじゃん!!!」
「じゃあ、歩武の食べかけを3倍で。じゅるり」
「やっぱり帰っていいかな!!」
と、俺が勢いよく立ちあがった瞬間。
部屋のドアから、ノックの音が聞こえてきた。
「空いてるぞ、入れ」
「こんにちはー、みんな集まってる?」
元気な声と共に入ってきたのは、直人と灯。
単純に遊びに来たのか、私物のバッグを持って部屋に入ってくる。
しかし机を囲む俺達の様子を不審に感じたか、少しの躊躇を見せた。
「歩武くんがげんなりしてるけど……また何かあったの?」
「あれ、もしかして修羅場だった?」
「いや、なんでもない。平気だよ、うん」
「そうなの? ならいいけど……」
そういえば灯も、あの日チョコをくれたっけ。
灯らしく丁寧にラッピングされ、わりと気持ちのこもってそうな品だった。
といっても、確か直人にも同じように渡していたはずだし……
……って、何意識してるんだ、俺は。
「この紙は……真面目な会議でもしてたの?」
直人が机の上の紙を見つけ、声を上げる。
「あぁ、それが今日の論説部の活動だ」
「ふむふむ……えっと、翠下さんが健忘症に?」
「そう。弓那がついに脳の記憶領域を使い果たしちゃったらしいから、私達がその復元に協力している」
「た、ただのど忘れよ! すぐに思い出すから!」
「ど忘れ……もしかして……」
「……?」
その紙を覗きこんでいた灯が、何やら神妙な顔つきになっている。
何か思うところでも、あるのだろうか。
しかし弓那達はそれに気付かず、議論を再開していた。
「さっき御木津が馬鹿なことを言い始める前に、何か言っていなかったか? それかもしれない、と」
「そ、そうなのよ! 確かその……行事? じゃなくて、記念日とか……」
腕組みをし、考え込む弓那。
皆が沈黙し、その動向を見守る。
「……ねぇ。今日って、何日だっけ?」
「3月6日だよ」
「…………」
そして、壁にかかったカレンダーに向き直る。
今日から遡るように、順番に日付をなぞっていき……
「……あぁ、思い出した!!」
「弓那、思い出してくれた!? よかったー!」
「え? 灯?」
弓那が声を上げたことより、灯が妙な反応を返したことに、俺は驚いていた。
『思い出してくれた』って……
「3月3日、もう過ぎてるじゃない! 大変だわ!」
「あぁ、ひな祭りか? 別にこっちでは何もやっていないが」
「部室じゃなくて、あたしの部屋! パソコンの壁紙、ひな祭りのままなのよ! 変え忘れてたら嫁に行き遅れるわ!」
「どうでもいいことじゃん!!」
やっと小骨が取り除けたのか、満面の笑みを浮かべる弓那。
雲母は呆れてため息を吐き、藍はいつの間に取り出したのか雛あられを食べ始めている。
そして灯は……
「…………」
直人と一緒に、苦笑いを浮かべていた。
その意図は、もしかして……
「……なぁ、灯」
「え? な、何かな、歩武くん」
弓那万々歳のムードの中、自分の記憶を探りつつ、灯に話しかける。
いつかは覚えてないけれど、以前に話題の種にしてた気がして……
「灯の誕生日って……3月3日だっけ?」
「あ……うん。そ、そうだよ」
「へ……?」
…………
「ああぁぁぁあぁぁ!!! わ、忘れてた!!!」
旧校舎に響きそうなくらいに、盛大な声を上げる弓那。
がっしと灯の手を握り、縋りつくように身を寄せる。
「ご、ごめん灯!! わ、忘れてただけなのよ!! 本当に!!」
「えっ? べ、別にいいって、そんなに気にすることでもないからっ」
「灯! お誕生日おめでとう! でもごめんっ! プレゼント用意してなかった!!」
「俺も、忘れてた……ごめん」
「別に悪くないって! 謝らないでよー!」
恐縮する灯だが、やっぱり罪悪感を感じてしまう。
それに、少しの後悔も……
せっかくこうして、至極普通な学園生活を送れているのだから、それに値することくらいはしたいのだ。
平和な日常の中でも、特別な日があって、そこに意味を持たせるくらいに。
今からでも、俺にできることがあるとすれば……
「じゃあ、ちょっと遅れたけど……今日でも、食堂に行くか?」
「え……?」
友人の、誕生日を祝う。
これも、神撫学園にやってきて、初めて得られた機会なのだから。
「確かに、いいアイディアだね。僕も賛成だ」
「そうね、夕食はみんなで食べましょう!! 灯のお誕生日パーティってことで!!」
「そ、そんな。悪いよ、迷惑になっちゃうし……」
「ふふん、いいじゃないか。弓那の顔を立ててやる、とでも考えておけばいい」
「うんうん。楽しめる時には楽しまないと、損だよ」
「そっか……そう、だね」
肩をすくめていた灯が、ふっと笑顔を浮かべた。
そして姿勢を正し、ぺこりとお辞儀する。
「ありがとう、みんな。それじゃあ、よろしくねっ」
「よーし、それじゃあ7時に食堂集合!! 今夜は全部、あたしのおごりよ!!」
「バカ、それは禁断の言葉っ……!!」
「じゅるり」
「あああああ!!! 今のナシ!! ナシにしてええええっ!!!」
おしまい。
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